国際保健

I.国際保健とは何か?:
主に、大英帝国の植民地政策や米国の軍事政策の一環として発達してきた熱帯医学・国際保健であるが、国際化時代にあって国境を越えた公衆衛生として捉えなおすことができる。公衆衛生は医療をも含む概念であるが、その原則は人間集団を対象として考えるところにある。ゆえに、国際保健の対象としては世界全体を1つの集団としてみたときの健康問題、地域別や国別に見た場合の健康問題、その他の特性によって層別した健康問題などになるであろう。その頻度の指標は基本的には公衆衛生で用いる死亡統計、疾病統計、保健資源統計であるが、国ごとにその精度が異なることから、国際比較に用いやすい指標を考案する必要がある。
<国際保健に用いられる指標>
現在、全世界に約63億人の人が住んでいる。先進国、途上国の別に分けると途上国は2/3を占める。世界人口の半分以上は適切な保健医療サービスを受けていないといわれる。
粗死亡率、PMI
国別、地域別の公衆衛生上の問題を特定する方法として、全死亡に占める死亡の多い年齢層を見出すこと、また、主要死因の原因となる疾病、疾病の頻度が多いものを最重要課題とするのが1つの方法である。基本的死亡の指標として粗死亡率が上げられるが、これは年齢構成によって大きな影響を受ける。しかし、世界の国々には年齢構成のデータを持っていない国もある。中高年の死亡が若年者の死亡リスクより高いのは、当然のことであるが、これを考慮した指標が全死亡に占める50歳以上の死亡の割合を示すPMI(Proportional mortality ratio)である。中高年の死亡が全体の割合で多くを占めるならば、若年者の未然死が少ないといえる。現状(2002年)で日本は94.2%であるが、バングラデシュ(’86)は32.5%である。この違いが、未然死によると考えられるのだ。
では50歳以下の死亡はどの時点で起こっているのだろうか。この観点から重要な二つの指標が、乳児死亡と妊産婦死亡である。
乳児死亡と妊産婦死亡
乳児死亡は1歳までの死亡であるが、これを出生千あたりにした乳児死亡率はその分子も分母も登録された数であることも他の指標と比べて、特徴的な指標である。乳児死亡はさらに生後28日までの新生児死亡とそれ以降の死亡に分けられる。また、新生児死亡は出生当日の死亡、生後7日までの早期新生児死亡、それ以降の死亡に分けられる。
これらは母子保健の重要な指標であり、2002年の時点で、我が国の乳児死亡は3.0(出生千対)である。1950年当時は60.1であった。また、新生児死亡は1.7、早期新生児死亡は1.2である。この数値は途上国に比べると断然低い。乳児の死亡、特に新生児の死亡は妊娠中の経過と関連のあるものが多く、これを考慮した指標が周産期死亡である。周産期死亡は妊娠22週から生後7日目までの死亡をいう。即ち、妊娠中の死産に早期新生児死亡を加えた死亡である。この周産期死亡による死亡は以後30年間での死亡より多い。我が国の周産期死亡は3.7(出生千対)である。
妊産婦死亡は国際的には出生10万人あたり何人の妊産婦が死ぬかであり、一人の健児を生み出すための女性のリスクを示している。国内では出産(出生+死産)10万対で示される。我が国では7.3(出生10万対)(2002年)であり、先進国の中では決して低い数字ではない。途上国ではアフリカ地域で600−800、南アジアで400−600、東南アジアで300前後、南米で200人前後である。途上国における母子の死亡リスク因子として早婚、若年妊娠、母体の栄養不良に基づく胎児発育遅延、感染、母体管理の不徹底、高受胎率などがある。
母子保健において、母体の管理がまず重要なことはいうまでもないが、途上国においては女性が様々な面で虐げられていることがある。たとえば、幼児期から男児に比べ女児は十分な栄養が与えられない。また、成長し結婚しても家計の収入源のかなりを母親が担っていることが多く、これは貧困な家庭になるほどその傾向が強い。
<世界の健康問題の現状>
母子保健における重要な問題
現在、途上国における5歳以下の幼児の死亡原因の大半を占めるのが、急性呼吸器感染症、下痢症がそれぞれ20%以上を占め、麻疹、マラリアなどが続く。栄養失調は素地あるいは単独で死因となる。これらの複合によるものを含めると71%を占める。5歳未満児死亡率(U5MR)は1950年には全世界で198(1000対)であったが、2001年には82になった。しかし、先進工業国が31であるのに対し、開発途上国で141、後発開発途上国で170と格差が大きい。栄養失調はクワシオコア(Kwashoirkor)とよばれる浮腫を伴う栄養失調と、マラスムス(marasmus)という重度の栄養失調に分けられる。前者は蛋白質の欠乏を主因とし1歳以上で多く見られ、後者は1歳以下に見られ老人様顔貌が特徴であり、母体の栄養失調に起因すると一般に考えられている。しかし、実際はどちらも蛋白質・カロリーの不足が原因としてあり、前者はウイルス感染症などにより体内にフリーラジカルが蓄積するため細胞障害を来たし浮腫を呈する。両者の特徴をあわせ持つマラスミック・クワシオコア(marasumic kwashoirkor)もある。
急性呼吸器感染症について、1990年にWHOは、地域の拠点となるヘルスセンター、小規模病院への標準管理法の導入、コミュニティヘルスワーカー(CHW)への教育、家族への教育からなるマニュアルを作成している。この前提には必須薬品の適正な使用がある。この中で、頻回呼吸、栄養失調を危険要因ととらえ、マラリアの流行地においては熱のある患児に抗マラリア薬であり抗菌剤としての効用もあるST合剤の使用を勧めている。吸気時に胸壁の陥凹(陥没呼吸)がみられる重症肺炎では、入院治療が必要である。
下痢症に対しての治療は補液が重要であるが、医療機関を利用できない人が多い。経口補液(Oral rehydration therapy)を用いることで対応できる。WHOによりORTの組成が示され、1リットルの煮沸した水に溶かすパッケージが配布されている。
乳児期、幼年期の死因の中に麻疹をはじめとする予防接種により予防可能な感染症が含まれる。これに対し、WHOでは拡大予防接種計画(EPI)によって予防接種を受けるべき年齢などを示している。対象となっているのはBCG、DPT、OPV、麻疹ワクチン、(B型肝炎ワクチン、黄熱ワクチン)である。毎年誕生するおよそ1億3千万人の子供のうちBCGで79%、DPT73%、OPV75%、麻疹72%、B型肝炎24%の接種率である。これにより、毎年およそ300万人の子供が死を免れている計算になる。
成人保健の問題
 現在、WHOによって全世界の国々での死因と疾病による影響(Global Burden of Diseases)を推計しているが、これによって以下のような新発見があった。15歳から59歳の男性の75%、女性の82%が非感染性疾患による死亡であった。災害によるものは男性の23%、女性の11%を占める。また、うつ、アルコール依存症分裂病などのメンタルヘルスによる死亡は1%に過ぎないものの、それらの障害による損失は11%を占めることがわかった。これらはDALYs(Disability Adjusted Life Years)という概念を用いて計算してある。DALYsは世界際長寿国の日本の平均寿命を基準に、病気や障害を持って生きる年数(YLLi)や病気や障害で平均寿命より早く死んだ年数(YLDi)を合わせて病気や障害による時間的損失を表すもの(DALYsi = YLLi + YLDi)である。世界銀行やWHOが財政支援を伴う保健政策立案において優先順位の決定に指標として用いている。
労働衛生
国際労働機関(ILO)による試算では、全世界の労働関連障害による死亡者数は年間113万人、そのうち労働災害によるものが33万人、通勤災害が16万人、残りが職業病等であるという。地域別の推計では先進工業国に比べ、途上国や旧共産圏で死亡災害の発生率は2から4倍高い。また、死亡災害の背後には1000倍程度の休業を伴う災害がある。労働災害は因果関係が明白であるため把握されやすいが、化学物質の中毒、じん肺症、騒音性難聴、筋骨格系疾患などの古典的職業病も途上国での全体像は不明である。
けい肺はじん肺の一種であるが中国では1991年から1995年までの間に50万人のけい肺患者を登録しており毎年6000人の新規患者と24000人の死亡がある。ベトナムではけい肺患者が9000人に達し労災補償の90%を占めている。炭坑夫などの18%にけい肺の所見がある。ILOとWHOは「世界けい肺撲滅作戦」(Global Silicosis Elimination Programme) を展開し、作業環境改善及び検診体制整備と国家行動計画策定を各国に促している。
また、WISE(Work improvement in small enterprises)と呼ばれる現場の労働者と経営者を対象とした参加型の労働衛生改善活動が展開され実現可能な低コストの改善がなされている。フィリピンの4地域でUNDP(国連開発計画)の資金とILOの技術協力により成功を収め、フィルピン政府内で予算化され全地域に普及している。タイでは農村労働に焦点をあてて活動している。技術移転(technology transfer)のやり方として興味深い。
<健康問題に対する対策>
プライマリヘルスケア
1977年、カザフスタンの首都アルマアタで開催された世界保健会議で、2000年までにすべての人に健康をという目標が掲げられた。プライマリヘルスケアはこの目標の達成の重要なツールであった。健康教育、栄養、衛生環境の確保、家族計画を含む母子保健、主要な感染症に対する予防接種、風土病の予防と制圧、頻度の高い疾病・災害の適正治療、必須薬剤の提供などをその主要な要素とするプライマリヘルスケアはその目標の高さゆえに達成困難であるとされている。
このため選択的プライマリヘルスケア(selective primary healthcare)というより限定的なものが提案されている。これは疾病の有病率、罹患率、死亡率や疾病制圧の可能性、費用や効率などを考慮し、予防の優先課題を選定するやり方であり、従来のプライマリヘルスケアからするとやや医学的手法に偏ったやり方ではある。
ヘルスプロモーション
1986年のオタワでの世界保健会議で提案され、以降WHOが推進してきた。健康増進活動と訳されるが、ヘルスプロモーションの重要な要素は、決して保健の専門家が主導するのではなく、住民が積極的に参加し、行政その他の周囲社会がそれをサポートするという点である。予防可能な疾病について、その危険因子を取り除き、疾病への罹患自体を防ぐ一次予防である。当然、その実行には公衆衛生の理解が必要である為、住民を教育・啓蒙しながら進めることになる。
おわりに:従来、体験談の積み重ねであった国際保健が、ようやく体系化されつつある。これは国際化、ボーダレス化と無関係ではない。国内の診療・保健活動においても国際保健を意識せざるを得ないし、医師の活躍の場を国内に限定する必要のない時代となった。