代表的日本人

代表的日本人 (岩波文庫)と言えば内村鑑三の代表作。ケネディー大統領が来日したときに尊敬する日本人として上杉鷹山の名前を挙げ、取材した記者の誰もが知らなかったという逸話があるが、彼が鷹山を知っていたのは内村鑑三の原著"Representitive Man of Japan"を読んでいたからだ。店頭に並んでいたこのタイトルの本を手にとって、著者の名前にも気付かずに買ってきたが、開いてみてビックリ、現代の日本から明治以降の代表的日本人 (ちくま新書)を今をときめく斉藤孝氏が選んで書いたまったく別の本だった。この中で取り上げられている5名が与謝野晶子嘉納治五郎佐藤紅緑、斉藤秀三郎・秀雄、岡田虎二郎の5+1人である。この中で、私にとって最も身近なのは、嘉納治五郎講道館柔道を学んだ者にとってはやはりカリスマである。この項については、なるほどとうなずきながら読み終えたが、今回の主題はそこにはない。
実は、2年前だったろうか友人の大学教員2名と話をしていた折、内村鑑三の代表的日本人は名著だったというところに話が及び、あの現代版を書かなきゃいけないという話になった。西郷隆盛上杉鷹山二宮尊徳中江藤樹日蓮上人と錚々たるメンバーがここには登場する。日本のすべてを代表する者ではないかもしれないが、日本のコアを代表する者たちであることは間違いない。その強烈な生き方には圧倒される。斉藤孝氏の代表的日本人は、今の日本人に備えて欲しい能力を代表する人たちを挙げたようだが、内村鑑三のそれは、日本の魂が乗ってきた代表人物という印象がある。この二つの書物は題名こそ同じだが、次元の違う話をしている。
そこに現れる次元の違いは何処から来るのか。私の「代表的日本人」が整理し切れていないので、代案の出せない状態で十分に言及できないが、一つには生命を賭けた挑戦をした人たちか、そうでないかということではないか。生命を賭けなければ本物ではないというつもりはないが、内村の代表的日本人の重さとの違いは一つはそこにあるのではないかと思う。
私が体験したくらいの死ぬか生きるかということは誰もが体験したことだろうと思うが、生と死との隣り合わせ感というものが自らの精神を研ぎ澄まし、嵐のように荒れ狂っていたわが心が鏡面のように静まり、「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」という宗矩の歌のような境地に立たせてくれる。こういう心を維持したいものだが、それは不徳の致すところで維持することは難しい。かの内村の5人はその鏡面のような静まり返った心で大局に望んだ人物ではないかと思う。彼らの人生の全行程が無我の境地であったとは言わない。しかし、人生を賭けた大決断の時に、彼らは無我の境地にあったと私は思う。そんな大決断を迫られる時に、無我の境地で決断を下したい。