こういう独白は交流がないと続けるのは難しい。本多静六という東京帝大の教授で一財産をなした人がいるが(私の財産告白)、その人は一日1枚の原稿を書くことを日課にし、給料の4分の一を天引き貯金したという。また、死ぬ前に財産のほとんどを匿名で寄付し、子供にはほとんど残さなかったそうだ。映画監督の黒澤明も脚本を一日一行だか一枚だか書き続けた。うちの教授によると論文を書くことはカタルシスで書くことによって新たな発見もある、とのこと。原著と総説とでは真実の一断片と森全体のような違いがある。講義などで話をするには、人の講義録(人の書いた教科書)に頼らないとすれば、おのずと総説を書くつもりにならないと、話しのねたに困る。大学時代の恩師は助教授時代に小衛生学という隠れた名著を残しているが、多くの教科書の半分以下の分量で必要なポイントを網羅していたと記憶している。そのコラム欄にあった小話が寸分違わず講義の中ででてきたときには、こうやって講義すればしくじりは少ないだろうと感心した。
 臨床医学の世界ではエビデンスに基づく医療が重要ということで、その道の権威の総説は疎んじられる傾向にあるが、今あるエビデンスを吟味した上で、示唆にとんだ考察をできる人が真に頭のよい人ではないかと思う。人間の頭の中にひらめいたことからしか新しい発見や真理の探究はなされないはずだからだ。遠い昔の演繹法帰納法の相互関係はどうも今も続いているようだ。